記事を投稿してくれる方募集中です。

雨の日に。

今日はせっかくの日曜日なのにずっと雨でした。

雨について、そぞろに書いてみることにします。

 

たましいの砂漠

雨が人々の伝えきれない想いだったら、どんなに素敵でしょう。

たいせつなひとからの手紙のように、乾いたこころの砂漠を潤してくれるのです。

雨が「世界のささやき」だとしたら、ワタシたちは独りではありません。

ときには傘を打つ雨音に、耳を澄ませることも悪くないですね。

遠い国には、一年中雨が降らないところもあるとききます。

「世界のささやき」が届かない場所とはどんなところか?

紙ヒコーキのように軽薄な、ワタシなりの思い遣りを、無責任という空に向けて飛ばしてみました。

ワタシが聴いた「ささやき」は実は「叫び」でもあって、その生まれが、雨の降らない乾いた国の、切実な民の声だとしたら、そこに「世界のささやき」が届くはずもありません。

まさにそこから、その「叫び」は放たれているのですから。

慈悲なき砂漠があるのは、この星の上だけではありません。

どうやらワタシたちのこころにも同じように砂漠はあるのです。

どちらも生存にとって過酷なものです。生きて活きるのは難しい。

伝えきれず、乾きかけた言葉を、もう一度声に出してみたいものです。

それがたれかのこころに雨を降らせると信じて。

あるいは、次の雨の日は声をひそめて、「世界のささやき」に耳をかたむけてみましょう。

豊かさの傍らで乾きに悩まされるという矛盾が、もしワタシたちの「饒舌」に因るなら、

ほんとうの雨乞いとは瞳をとじて声をひそめることです。

それはまったく祈りのかたち、そのものです。

祈りを忘れるほど富める国にも、たましいの難民はあるのですね。

 

雨乞い

「儒教」などに用いられる「儒」とは、古い時代の中国で、シャーマンのような生業に就いていた人々を指します。「儒者」ですね。

シャーマンといってもさほど身分は高くなく、裕福な家の葬儀をあてにする葬儀屋だったともいわれています。

この「儒」の字の「需」は、彼らが「雨乞い」をすることを表していました。「雨乞い」も大切なお勤めだったようです。

雨乞い=需雨乞いをする者=儒、ということです。

「需」は雨を「もとめ」て「まつ」の意味になります。名乗でも「まち・みつ・もとむ」などと訓むこともありますね。

また、「易」という古い書物の六十四掛のひとつには「需」の掛というものがあります。

「しずかにチャンスを待つべし」といったところでしょうか。

一説には「需」の「而」は、ながく伸ばされた柔らかいアゴ髭を象っていて「需」と「須」は同源だとされています。

たしかに「須」という字にも「まつ・もとめる」という意味があります。

柔らかくてながい髭は、どこか雨雲のイメージと重なります。

※「需」の掛

 

ちなみに、豆知識をひとつ。

雨乞いから連想される「飢饉」(饑饉・ききん)という言葉がありますが、古くは「饑」は穀物が実らないこと、「饉」は野菜が実らないことを表しました。

 

もうすぐ梅雨の時季ですから、雨の日にはこちらの記事を思い出していただけたら、さいわいです。

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください